絵かきとみことば
小さい頃からよく絵をかいていた。得意なのはチャンバラ。黒頭巾の侍や忍者の戦い。
親戚のおじさんが褒めてくれた。
「こ-ちゃん。うまいことかくな一。」
零戦、紫電改。戦闘機も夢中でかいた。小学校ではコンクールの副賞でもらった絵の具をつかってお寺の屋根を描くのがうまかった。中学では美術の先生に才能があると美術クラブからテニスクラブに移ろうとする僕はひきとめられた。高校では芸大を目指している先輩の影響をうけた。
授業をさぼって美術準備室のなかでひたすら石膏デッサンをした。
そして50倍の難関をくぐりぬけ芸大の油絵科に入学してしまうのだ。大学院一年生の時に初めての個展を開く。
個展とはこんなにも疲れてしまうものだと感じながらも何かに追われるように発表し続けた。しかし、たいした世間の評価を受けることもなかった。
少しでも他とは違う表現をしようとやり続けて気がついたらもう40歳がそこにきていた。
そしてその時、私は絵をかいていなかった。来る日も来る日もひたすら新聞の折り込み広告をバケツの水に浸してやわらかくなったそれをギューとしぼる。糸でぐるぐる巻きに
してその日の日付を記入する。形状はまるでウンコだ。
チラシでできたウンコを一年半つくり続けると仕事場はうんこに占領されそうになった。 喜んで絵をかく自分はどこでどう道を踏み外してしまったのか、そこには絵をかく喜びは見当たらなかった。自分の存在の連続性を証明するために、むなしさの上に積み上げら れたむなしさまた虚しさ。これがほんとうに私のやりたいことなのか。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、じぶんかってな道に向かって行った。」イザヤ書53章6節
そんなとき初めて聖書のことばに出会うのだ。
「人を恐れるとわなにかかる。」箴言(しんげん)29章25節
出会いがしらにぶつかるように突然このみことばにぶちあったって倒れてしまった。
自由に絵をかくといいながら絵をかけない自分。結局人の目を気にし人を恐れるというわなにかかり全身を縄でぐるぐる巻きにされていることに気がつかなかったのだ。
美術評論家の目を恐れ、作品に向けられる冷淡な目を恐れ、ほめてくれる人の期待を恐れ。人を恐れてわなにかかっている自分の姿を聖書のことばは鮮やかに映し出した。
「そのとおりです。」と口にしたとき次から次へと涙があふれ出た。いままで絵をかくのを妨げていた重い鎧。それらをつなぐ無数の縄が切れて足もとに落ちていったみたいに。
大好きな水彩画を描くヘンリー・ミラーがこんなことを言っている。
「描くことはもう一度愛することだ。そして愛するとは思う存分生きることだ。だが考え得るありとあらゆる機械装置や金もうけ仕事ありとあらゆる逸楽、ありとあらゆる無益な贅沢でごった返している虚空の中でいったいどのようなたぐいの愛をどのようなたぐいの人生を見つけることを期待できるというのか。生きて愛するためにはしかもそれを絵具 で表現するためには人は真の信仰者にならねばならない。」
真の信仰者とは程遠い私は相変わらず人を恐れる者だ。相変わらずのさまよう羊。知らず知らず絵をかけなくなっていた私。みことばに出会いふたたび「えをかくせいかつ」に帰ってきた私。絵かきが自由に絵をかくために必要なのはみことばだ。私は祈り求める。
箴言の29章25節。1行目は「人を恐れるとわなにかかる。」それに続く2行目は「主に信頼する者は守られる。」とある。主とは、どんなお方なのか。信頼するとは、どういうことなのか。聖書のページをあちこち開くたびにみことばは語りかけてくれる。
「わたしは、彼の肩から重荷を取り除き、彼の手を荷かごからはなしてやった。
あなたは苦しみのときに、呼び求め、わたしは、あなたを助けだした。」詩篇81篇6節7節
「私たちは仕掛けられたわなから鳥のように助け出された。わなは破られ、私たちは助け出された。私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」詩篇124篇7節8節